さて、ブログの更新が滞っているということは、仕事が忙しい裏返しなんですけど(言い訳しちゃいかんな)、近頃は、取材で北海道に行ってみたり、地元でいろんな初顔合わせがあったり、そして農作業も徐々に佳境に…と、かなりハードな毎日を過ごしております。あ、あとは子育ても、ね!
ちなみに今日は、朝から農作業をして、小学校に行って運動会の応援、午後から奥さんの買い物に付き合い、夕方から勉強会?に参加、そして今は、i-ビル内の図書館で原稿の修正作業を終えたところです。
そんななか、先日、とある自治体のトップの方にインタビューさせていただく機会がありました。まあ、詳しい内容は雑誌が出てからそちらで、と思いますが、ちょうど世代が近いこともあり、かなり饒舌にいろんな質問にお答えいただきました。
そのなかでも面白かったのが、「幸福感」の話です。どうも、その首長さんは「幸福実感」というのを一番のテーマに掲げていらっしゃるらしく、インタビューでもそれに紐付いた内容が多かったのですが、僕が気になったのは、「幸福」というカタチのないものをどう定義するか、でした。
幸せのカタチ。それは人それぞれです。最近では、「今が幸福」と答える若者が増えているらしく、「これは将来に希望を持てないから、現状に満足しようという表れだ」なんて主張する社会学者の方もいます。で、その手の質問をぶつけてみたところ、「そんな人が希望を持てることが大事だと思う」といった趣旨の回答を得たのですが。
つまるところ、「幸せ」とは、自分次第なんじゃないか、と個人的には思います。インタビューでも、「行政から受け身のサービスを受けるのではなく、自分が主体となって活動することで、達成感が得られ、幸せを実感できるのでは」といった話が出てきたのですが、確かに、幸せは自分で掴むもの、だと思います。もっとも、年収600万円ぐらいまでは、年収の伸びと比例して幸福感も上昇するらしいですから、ある程度の経済基盤は大切なのでしょうか。
僕なりに幸せを定義するなら、「主観」でしょうか。いや、これもちょっと違うのかな…。だけど、客観的な条件で幸せって感じるものじゃない。同じ状況下に置かれても、「ついてないな」と思う人もいれば、「俺はラッキーだ!」と感じる人もいる。それって、自分の見かたや考え方次第ですよね? であれば、「幸せだ」と思った方が、ずっと得な気がします。
…とまあ、こんなところで持論をぐだぐだ展開してもアレですが、ともかく、いろんな人に話が聞けて、そこにはいろんな刺激がある。フリーライターって、つくづく楽しい仕事だな、と思う今日この頃です。
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